昭和46年1月15日     朝の御理解

御理解第74節「かわいいと思う心が神心じゃ。」
かわいいと思う心が神心じゃ。


ここで、かわいいという言葉を使っておられます、このかわいいという、のと、神心とは一つだとおっしゃっておられるんですが、そのかわいいというのは、かわいらしいという、というかわいいではない、ね、これは二代金光様、四神様の、おー、教えておられる事の中に、んー、御神徳を受けるためなら、どのような信心させて頂いたらまぁ良かろうかと、おー、お尋ねした氏子に対して、「惜しい欲しい、憎いかわいいを取ったらおかげじゃ」とおっしゃった。ね、惜しい欲しい、報いかわいいを取ったらおかげとおっしゃるんですから、それこ、かわいいと言う事は、あー、言わばここで言う、神心じゃと、まで高度なものだ、何です、ここで言うかわいいというのは。そこん所を、あ、もう眼ごまかに言うてもう、え(入れても、痛くない?)ほどしにかわいいなどと言いますね。あのかわいいとは、だから違うんです。神心と、おー、同一なもの、同一の意義を持つものなんです。ですから、んー、例えば、あー、仏教で、え、(じし?)を説き、キリスト教では愛を説きます。私は、教祖生神金光大神の説かれる所、この神心を説かれたとこう思いますね。
先日、あー偉い先生のご講話を頂かせてもらった時に、(じし?)と、おー愛という事について頂いたんですけれども、それを、おー、結論しますとね、人を責めないと言う事だと、言う事だと。まぁ私共の(ゆうでんき?)の足りない者が考えても、やはり結論したらそうだろうなーと私も、話を聞きながら思うた。ならそこで、な金光教では、あー、どういう事になるだろうかと言うと、まぁ色々、おー、い説かれてまいりました、(とくに?)金光教では、真だとか、まこ、真心だとかって言う風に説かれたけれども、私は思うですね、やはり神心だと思う。教祖が説かれた所は神心。いわいる、かわいいと思う心なのです。ですから、えー、ただ相手を責めないっと言うではなくてね、えー、また残っての教えの中に、「言う事を聞かぬ子は親でも仕方があるまいが」と、ね、かわいいものじゃと言う風に教祖はおっしゃっておられますよね。言う事を聞かぬ子供はもう親でも仕方があるまいがって、けれどもね、時節を待っておかげを受けたがよかろうと言う風に後で結んでおられる。だから、かわいい者じゃと言うのはね、またその言う事を聞かん子の後ろから、またこう祈っておられると言う姿なんです。拝んでおられる。相手を責めないと言う事だけではなくて、責め、その、言うならば、あー、何と申しましょう、えー、例えば、憎いと思っておった者までが、いわいるかわいいと言う事になる。ね、いうなら、責めておった相手の事までがです、だんだん分からせて頂いて神心が積もってまいりましたら、責める段の事ではない、いわいるかわいい者じゃと、(きおどく?)に私共はかわいいその人だなと言う心が湧いて来る。だから責めないだけじゃなくて、相手をまた、その上から祈って行く心が神心なんです。その神心をかわいいとここでは表現しておられるんです。だからかわいらしいとは、意義が違う事を知らなきゃならん。ね、いわいる四神様も同じやっぱ言葉使っておられますしね、「惜しい欲しい、憎いかわいいを取ったら」っとおっしゃるん、だからそのかわいいとは違う。これは、虫をとらなければならない物です。この人達を愛するけども、この人は愛、愛せられないと言うのでは、それはかわいらしいのです。ね、愛しらしいと言うんです、それとは違う。そこでその、かわいいと思う心が、そのまんま、神心と同一意義を持つものだと言う事をです、なこの75節から頂いて見るとですね、「人を殺すというが、心で殺すのは重い罪じゃ。それが神の機感にあかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」とおっしゃる。ね、なるほど、おー、殺人罪に(たわれる?)そして、そこえ極悪は死刑にもなるし、ね又は、(むきちょう?)生きていったような、う、刑を受ける。だからそれでまあ言うならば罪はもう罪なえるのだけれども、ね、けれども心で殺すのは重い罪じゃと。ね、心でいじめる、心で傷付ける、心で殺す、これは神が見ておると、だから神の、言わば、拘束に照らされる時に、どういう結果になるかという事が分かる訳です。心で殺す、心で傷つける、それは刃物を持って傷つけるよりも重い罪だと言う事です。ん、そこでなら、ただ今頂きます「かわいいと思う心が神心じゃ」と言うことは、それとは反対の事になる。心で相手を活かすのである、心で相手の傷を持っておるでも、癒してあげる事が出来るのである。ね、だからこの74節はそういう素晴らしい、意義が持ったものだという事が皆さん分かるでしょう。だんだん信心させてもらいますとね、たしかにね、まぁ私のような者でもそうなれたんですから、確かに欲しい物がなくなるです、もうこりゃぁ本当にそうですよ。昔は、デパート何か歩きよったら、あれはええなー、あれも欲しいなーと、ああいう物を内に持って帰られたら素晴らしかろうなーとこう、思うものばっかりだったけど、この頃、どんなデパート見せてもらっても、あれが欲しいと思った事が無い。欲しい物が無くなるです、確かになくなるです。だから、惜しいものもなくなる。だから、ここに色んな道具があります、まぁ中には(めいと?)言われるような物もあります。それが例えば、なくなったり、破損したりした場合何かでもね、そりゃ困ったねーと一っつも思わんのです私は、本当に。なるほど、信心のおかげだとこう、そこでなら、憎いから(いい?)がとれたかというとそうじゃない、まだ憎い心が起こったり、それこそかわいらしいなぁという心が起こったりする所にです、まぁこれからの修行があると私は思ってるんですけれども、それとてもだんだん家行を進めて行っておる。ね。
御理解8節の中に、神は、あー、無信心者ほど神はかわいい、信心しておかげを受けてくれよっとこう言っておられますね。信心しておかげを受けてくれよと。この辺になってまいります時に、そのかわいいという心が、だんだん分かってくるのです、無信心者ほど神はかわいい。はぁ神様神様と言うて接近してくるから、それはかわいい(つぎ?)じゃなくてね、無信心者ほど、世の中に神も仏もあるもんか何て言う人ほど、神はかわいいとおっしゃる。ね、けれどもかわいいと思われた所でなぁおかげは受けられぬ。そこで、「信心しておかげを受けてくれよ」と、神様の方が合唱してから、無信心者を拝んでござるような感じ、ね、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと。
御神訓の中に「天地の事は人のまなこを持て、知りて、知り難きもの、おそるべしおそるべし」と、天地の事は人間のまなこを持て、知りて知り難きもの」そのように(でんりを?)不可思議なものが天地の中にあるのだと、しかもね、しかも、それはおそるべしおそるべしと結んでおられる。先ほどから言うとる、それこそ、おー、心で殺すと言う事、心で傷付けるといったような事は、誰も知らないけれども、神が見ておるとおっしゃる。ん、ですから、そこにです、私は神様の言うならばおしおきというものに、というようなものが、そこに現われるとするなら、なるほど、天地の働きの中には恐ろしい、おそるべしおそるべしと、まだそういう小さい(みと?)ではありますまい。何に置いても、なるほどおそるべしおそるべしである。天地の事をなるほど、人間のまなこを持て知りて知りがたきものだけれども、ね、そこにです、(おそりです?)と思われる程しの働きの中にあるのだけれどもです、ね、ここに教祖の神様がです、ね、言わば教えておられるまぁ(けっすい?)の所を言うと、なぁ今日のかわいいと思う心が神心じゃと言う。私共の心の中に神心が募って行く、神心を持って実意丁寧な生き方が出来る、人を殺すのではない、傷付けるのではない、人を、心を生かす事の出来れば、い、傷を医す事も出来る程しの心。ん。そういう道を、私共辿らせて頂く所におそるべしと言うのではなくて、有り難し有り難し、勿体なし勿体なしという、天地の働きを世に、又は家に受けて行く事の出来れる道を、教祖の神様は教えられた。
もう、20年も、前の事に私が、いやー、あっちこっちに、お話に参っておりました頃に、えー私は、(ろくお?)話をさせて頂いたお話の中にね、これは神様に、あるその条件を頂いてから、それをお話になったんです。
広い、広いこう湖が私の、いわいる、心眼に開けて、湖、むこうにはこんもんとした、あー、森や、ね、いわいる、森と湖がある。それが、あー。夏の丁度、赤ね雲とね、夕焼け、真っ赤に焼けた、あー、中に太陽がもうまさに、その森の影にしずもうとしておるような場景である。そういう中をね、一人の妖婦が馬をひいて堤防(ずたい?)にこう降りて来る。そして、その湖の中に馬と共に入っていって、その馬をこう静かに洗う、いや、その馬になにか、感謝の言葉を、おー、唱えながら、唱えながらですかね、はー今日は御苦労さんきつかっただろうというような感じです。そして、自分もまた、その湖の中にだんぶりつかって、汗を落とし、あかを落として、まぁ、そのまま(いえずに?)帰って行くというような場景です。そして私は、そういう場景を見せて頂いてから思うた、こういう生き方、ね、(いちじつづのきんがを?)の、足み泥になって働かせて頂いた、馬と共に、その馬にお礼を言う心。ね、そして(ようじにつかせて?)頂く、それはもう素晴らしい、まぁ言うなら(月が差し込むようなあばらいりあっても?)それはもう、宮殿どころのようなうちに感じられる事である。そこに待っておる言わば、夕御飯のしたくが出来ておるであろう、それがどんなに貧しい食べ物であっても、それは、(そうらい?)の珍味にも味わう事が出来るであろう。そして、一日の疲れを、おー、休ませて頂くし、寝付かせて頂く、そこにはまた明日の健康な一日が約束される。そういうような場景であった。私は金光様のご信心を頂いて、えー、だんだん頂かせて頂ける様になるというのは、そういうような生き方だと思う。ん、そういう生き方にです、ね、神様がどう現われて下さるかという事何です。ね。例えば、皆さんがんなら一日自動車を買ってどんな御用をなさる。ね、それが、今日も御用のお使い回しを頂いて、有り難い事だった、忙しい事であったと自動車のおかげでと、例えば、自動車をお掃除させて頂きながら、ね、自動車にお礼を言われるような心。そういう感謝いっぱいの心でです、一日を閉めくくらせて頂く時に、それこそ「朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さ」といったようなものが、私はそこに頂けてくるとこう思うんです。
昨日は、えー、むつやのおー、「田代さえこ?」さんの一年祭、一年の式年祭がございました。私が祭員させて頂いて、若先生と「勇?」先生と三人でまぁおかげを頂きました。もうあちらえ参りましてから、もうご神前、お盛り付けなんかすんでおって、え兄弟達が皆、もう若い者ばっかり、一番年上が、あー、「のりお?」さんですね、「くまがえ?」何とかの長男です。え、昨日の、で、お祭りを受けた、あー、この一番上の姉に当たるんですから、えー、「田代?」さん「くまがえのりお?」さん二人、それから、んー「しんじ」君「けんじ?」君、んーと、若い者ばっ、むつやはもうこりゃ、いよいよ若い者ばっかりの世代になったな、年寄りが一人もいない。もうそれがなんとも言えんその、「さえこ?」さんのお祭りを皆で奉仕して、皆で今日は親先生に、い、おいでて頂いて、えー、一年の式年祭を使えて頂くという、その心配りがもう家の隅々まで感じられる。もうそれはなんとも言えない有り難い今日であった。今東京に、えー、大学に行っております、う「きよし?」さん、いわいる今日のお祭りを受けた弟に当たります、なかなか頭の良い子ですが、えー、もう以前はね、お母さんやら兄弟との信心をさせてもらうとなんか(それでも?)参りますと、胡散臭そうにしてね、そのしておったのが、やはり去年一年前に姉さんがな、ああいう事故で亡くなってから、この方朝参りもして来るようになった、信心の事もだんだん理解して来るようになった。まぁ本当にこれは、大変悲しい事であったけれども、信心しておるおかげでこの様なおかげで、昨日も例えば、お葬式をする時にもあの仏教でするばっかりになっとったものをですね、その若い兄弟達ばっかりで皆集まって、あれほど姉さんが合楽、合楽と言うてお参りをしておった、神様、金光教で葬式をすれば、どうするかと言って、その夜中にいわいる親戚の年寄りで一応言わば(ときぶせて?)金光教、お、の、式たりでお葬式させて頂く、皆さんもまぁ記憶にあるなとじゃろうとこう思います。そういうような雰囲気がね、家中にこうある訳です、お祭りをつかい終わってから、私皆さんに、一口お話を聞いて頂いたんですけれども、とにかくね、例えばここに一個のレモンがある、そのレモンを二つに切って、それを合わせる事は出来る、これを次ぎたる、また次ぐと言う事は出来ん、不可能である、出来るはずがない。けれどもね、このレモンが一つじゃならないけれども、それから一つ分種が、言わば取り出される。それが、土に返される、そこから(レモンの木を?)ね、レモンの木がすくすくと伸びて行く、ね、香しいまでのレモンの薫が辺り一面にか、(たがよう?)ようになる、実が実る、(面々再々?)レモンが沢山のレモンが、(あ周?)から出来れるようになる、私は昨日の霊祭をつかえてそのような感じがすると言うて、お話をした事でした。ね、一年前の事を思うただけでも、本当に悲しい事であったしかも、とっさの事であったから目の前が真っ黒になるようにあった、けれどもね、姉さん、っと例えば昨日の、おー、お祭りの主になっとりますのが、その弟、「田代きよし?」さんですから、一年前の時には本当に姉さんも目の前が真っ黒になるような事であったけれども、一年後は兄弟合集まってこの様な有り難い、言うならば感謝のお祭りにも似たようなお祭りが出来ておると言う事は、何と有り難い事であろうか。姉さんの死をもって、信心がなかった、また薄かった兄弟、信心の薄かった兄弟達が皆信心の有り難い事には、お、分からせて頂いて来た。ね、これからそれが、どのような言わば、働きになって来るか分からんけれども、おかげを頂いて行くに違いはない。(こんがくしゃ?)であった所の取り組みなどは一年間、田代さえこの御霊の、冥福ですねいわいる安心の御霊としてのおかげを頂くようにと、夢を願い続けて来た。なるほど、去年結婚するばっかりの事になっておったものが、相手が亡くなった。それから本人はどういう事になって来たかというと、最近自分でも言うように、僕は一年間の間に今度は、本当に自分ながら変わったと思う。そして、今年は学院行きをしようという事にまでなって来た。いわいる、だからこの頃来てから、僕は学院に一年間修行させて頂きたいとこう言う、(さだい?)けれども、しゃっち金光様の先生にならんでよかですっち(笑い)それは、それはあんたまた(きょうるい?)なさる、帰って来てから信心を土台にしてから、また(きおづめ?)をすりゃぁ良いじゃないかと、私は言っておりました。で、その事を父親に話た所が、秋永先生が言う事に、折角お前は学、学院で一年間も修行して来るのだからね、金光様の先生、取り次ぎ者を目指さなければいくもんか。と言われた、とこう言う訳です。ね、一人の言うならば、婚約者の死がですね、そのような例えば悲しい事ではあったけれども、一年間の間にどのように変わって来たか、なるほどじゃなかったら、新婚モードで、言わばあ、(しわはしわたくろう?)であったろうけれども、その幸せが、いよいよ本当の意味においての幸せ。ゆい、だけではない、いわいる神様がお喜びなさるような働きというものがね、そこに出来て来た。まぁ、学院に、取り次ぎ者になる、じゃそこから難儀な氏子が取り次ぎ助けられるといったような事が、この世の中に顕現されてくる事になって来たら、それこそ一粒のレモンの種は、ね沢山な、毎年毎年有り難い臭覚を(おる?)事の出来れる、(もとい?)をなしたのである、そこにね、御霊の助かりがあるのだ、そこに輝かしいまでの、御霊の死というものが、輝かしいものになるのだと、って昨日私は、お話させて頂いた、ね。信心とはね、私共が今日ここに頂いております、「かわいいと思う心が神心じゃ」と言う事から、そのかわいいと思う心と、神心というのが、どういう意義を持つものだと、なぁかわいいと思う神心はです、75節にある人を心で殺したり、傷付けたりすらが出来れる、その心が反対に人の心を癒して行ったり、生かして行くことさえ出来れる働き。しかも、なるほど天地の中には、知りて知り難き、それは、おそるべしおそるべしと、教祖は結んでおられる程しの、天地の(ふかしい奇妙?)微妙な働きの中にあってです、これはもうおそるべしではない、有り難し勿体無しで生きて行けれる道が、はっきりしておる。ん、そういう働きを、私はして下さるのが神様であり、又は、私は宗教だと思うんです。ね、どういう難儀な中にあっても、その難儀な事がかえって、いわいる難はみかげと言う事になっておるし、今まで憎かったと思うておったものがです、むしろ反対にかわいいものになって来るし、ね、日常生活に上に置いてもです、一日の(きんろ)を終えて、ね、そして、言わば共に働いた馬にでも、お礼が言えれる心なのです。今日もおかげを頂いて一日、お使いまわしを頂いて有り難いと、ね、天道様にお礼を言えれる心なのです。そういうものが、私は信心によって育てられると、ね、天地金の中にある、どうぞ信心しておかげを受けて来れよと言う、おかげの展開があると私は思います。ね、信心をね話したり、又は信心を無くして、なるほどそれはいかにも(しおに?)そこに埋めておっても、天地の中にある拘束と言うものは、変える事は出来ない、その法則に照らされた時、ね、結局はおそるべしおそるべしと言ったような結果になるのではないかと、私は思います。どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよと、いわいる、信心しておかげを受けてくれよとおっしゃる所のおかげを頂くと言う事は、私共がだんだん、かわいいと思う心が募らせてもらえる。それが神心とまで高度なものにならせて頂く所から、(知多?)共に助かって行く道。ね、「天地に道あり、(のいて?)ととなう」と仰せられる。その天地の道を、私共がです、辿らせて頂き、そこから天地の親神様の願うておられる、氏子どうぞ信心してと、拝むようにして、頼んでおられるようにして、教えておられる信心しておかげを受けて行くと言う事は、今日私がその内容に申しました色々な事柄がある、ね、そのような風にして成就して行くと言う事がです、ね、信心者のいわいるおかげというのはそのようなものだと、お道でいう言わば、おかげとの、おかげと言うのは、いわいるおかげ(かんと?)でも申しましょうか。ただ病気治しや、災難よけの神ではない、いわいる心治しの神じゃとおっしゃる。心を直させて頂く所からつのって来るのは神心である。かわいいと思う心である。ね。そういう私は心で日々生活をさせて頂くその喜びをです、いよいよ(大賀?)して行くと言う事が金光様のご信心者の生き方である言う風に思うのでございます。どうぞ。